image image

飯田線探訪

- 1993年 夏の記録 -

 今回の旅の目的は前回’91年の車窓からのロケハンで見つけたポイントからの撮影で、駅間の移動困難な箇所が多いため車で向かい、旅費を節約するためキャンプ用品による自炊と車中泊の計画であった。

飯田線へ向かう原動力となったのは、何より165系による伊那路の運行にあった。この頃になると165系オリジナルが運転される機会は稀となっていたため、美しい風景とともに記録したいという情熱が湧いてきたのである。

2018年8月 記


臨時急行 伊那路

宇連川渓谷を行く

宇連川渓谷を行く165系急行「伊那路」

クモハ165-36 + モハ164-839 + クハ165-132 
神領電車区のT9編成で大目玉の原型を残す先頭車は試作冷房改造車でAU12Sを6基搭載している特徴があった。

1993.08.13. 三河槙原 - 柿平 間

キャンプ場の川辺で遊ぶ子供たちと

キャンプ場の川辺で遊ぶ子供たちと

夏休みの河原の風景として湘南色の列車が溶け込んでいた。

1993.08.14. 浦川 - 早瀬 間

1993年8月の急行伊那路は13〜15日までの3日間の臨時列車として、豊橋-飯田間で運転された。
また、この年は冷夏で米の大不作となり、米の流通規制緩和のきっかけとなるほどの異常気象であった。
写真のようなどんよりとした天気が、夏の間ずっと続いていたように記憶している。

山岳地帯を行く165系伊那路

山岳地帯を行く165系急行「伊那路」

深い山々にオレンジ色が映える。373系ではこうはいかない。

1993.08.14. 東栄 - 出馬 間

165系伊那路

ジオラマのようなロケーションに幽玄な霧が漂う

夢を見ているような幻想的な風景が現れた一時だった。

1993.08.15. 東栄 - 出馬 間


トロッコファミリー号

トロッコファミリー号

川霧漂う宇連川渓谷を行くトロッコファミリー号

前回はEF58-157が牽引していたが、一度は佐久間レールパークで展示されていたED18-2電気機関車が牽引していた。

トロッコファミリー号

同列車を

また、豊橋寄りの客車オハフ46がトロッコ客車の増員を計るため、荷物列車のマニ44を改造したオハフ17-1に置き換えられた。この車両は後に青い塗色に変更された。

1993.08.13. 三河槙原 - 柿平 間

トロッコファミリー号

大千瀬川沿いを行く「トロッコファミリー号」

二年前に訪れたポイントであったが、この日もいまひとつの天気であった。

トロッコファミリー号

同列車

1993.08.14. 下川合 - 中部天竜 間

トロッコファミリー号

村の鎮守様と

二年前の探訪で飯田線の車窓から、はるか下の谷底近くにたまたま見つけた神社。
車で出かけた目的の一つがここを訪れることであった。詳しく調べてみると、佐久間町川上の八幡神社ということが判明した。

ED18-2と12系客車

ED18-2と12系客車

 

スハフ17-1

赤いスハフ17-1が森の緑に映える

1993.08.14. 東栄 - 出馬 間

トロッコファミリー号

電源地帯を進む

トロッコファミリー号は乗客を乗せた運転は中部天竜までであったが、機回しのため水窪まで回送が行われた。

背後の施設は佐久間水力発電所。日本屈指の大規模ダムである佐久間ダムは背後の山塊の裏側に位置する。飯田線開通の経緯は電源開発が後押しをした歴史がある。

天竜川橋梁は佐久間ダムの建設に伴い、水没する北側の旧路線から現在の飯田線へ移設する際に架けられた昭和30年竣工の鉄橋で、橋脚は潜函工法により施工され、根入れ深さは天端から22.9mもある。

1993.08.15. 中部天竜 - 佐久間 間

天竜川橋梁

天竜川橋梁を渡るED18 2


311系

トンネルを抜ける311系

トンネルを抜ける311系

飯田線では臨時快速に311系が運用されたが、定期運用は2018年現在までのところされていない。
 

311系

311系

1993.08.16. 三河槙原駅

三河槙原の岩山

名称 三河槙原の岩山

みかわまきはら

119系

宇連川沿いを行く119系

宇連川沿いを行く119系

私にとって119系は旧国を追いやった車輌として映る訳で、積極的に撮影する対象ではなかったのだが、その119系も全廃となった今日、こういった日常の風景の大切さを再認識する。

1993.08.13. 三河槙原 - 柿平 間

119系

八幡神社と

1993.08.14. 東栄 - 出馬 間


旧田口鉄道

モハ14

旧豊川鉄道 モハ14形

かつて鳳来寺口(現本長篠)-三河田口間の22.6kmを結ぶ田口鉄道という地方鉄道があった。昭和4年5月から部分開業し、昭和7年12月に全線開通した。開業当初から電気鉄道で昭和18年からは車輌の運用を国鉄に委託、26年には国鉄、名鉄と相互乗入れが行われるなど、繁栄ぶりを伺わせていた。
昭和31年10月に豊橋鉄道に合併し、田口線となったが、40年の台風被害などが影響し、43年8月いっぱいをもって廃止となっている。
写真は奥三河郷土館で保存されている車輌である。
飯田線自体も元は四つの私鉄が国に買い上げられた路線で、田口鉄道は地理的に行止まりの支線であったがために異なる歴史を歩んだとも云え、日本全国に押し寄せるモータリゼーションの影響が顕著に現れた事例だろう。
私はこの廃線路の魅力にここからハマるのである。

田口線の駅

田口線の駅(昭和43年廃線)

 

モハ14車内

モハ14車内

モハ14の車内は旧田口線を説明した展示室として利用されている。

旧田口線の橋脚

旧田口線の橋脚

本長篠駅から北へ0.8kmの地点に大井川に架かっていた鉄橋の跡がある。もっとも目立つ遺構のひとつな訳だが、現在の地形図にも幅員の狭い道路やトンネルとして変遷した様子を至る所に伺うことができる。


 

終わりに

寺林踏切を通過する下りトロッコファミリー号

寺林踏切を通過する下りトロッコファミリー号

今回の旅はまだ数日滞在する予定だったのだが、空き時間に川で泳いだのが原因だったのか、あるいは紫外線アレルギーだったのか、両足全体にに蕁麻疹が出たため、引き上げることにした。よって16日のトロッコファミリー号は帰路の車で、たまたま踏切待ちをしていたときに迎えた一枚となったのであった。