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東京電力 鹿留発電所

鹿留(ししどめ)発電所は大正3年4月に運用が開始され、現在は最大出力18,400kW、発電機数3基の発電所です。

数年前、岩殿山の桜を撮影した帰り道、中央高速富士吉田線から右手に桜の花に彩られた山の斜面を見つけました。是非とも現地を訪れたいと、翌週再訪しましたが、すでに桜の花は散っていました。
2013年の春の訪れは早く、寒暖の差が大きかったためか、開花の時期は合ってはいたものの花芽の数が少なく、今ひとつの状況でした。

 

 

地元では「水槽山」と呼ばれる桜の名所

地元では「水槽山」と呼ばれる桜の名所

鹿留(発)山王神社

 郡内の桜の名所で知られている水槽山中腹に山王さんの愛称で地方の人に親しまれている神社が、鹿留発電所の守護神で、東京の千代田区永田町にある山王日枝神社から分祀されたと言われ、祭神は、大山咋神で、山と水(天神で大地を司る)の神様と言われていますが、治山治水の面から水にも関係深いところから発電所の守護神として崇拝してきました。
 祭典は桜花満開の日と申し合わせになっていました。したがって花見客で賑わう楽しい祭りであった事は事実です。
 無人化と同時に祭典は中止され、駒橋の三田八幡神社の祭典時に所長以下パトロールの人達が境内の清掃と併せて安全祈願を行っています。

  昭和六十二年十月吉日

現地説明版より転載

 

 

 


上部水槽

管理道路は水槽直下まで続いていましたが、付近はフェンスに囲まれており、水槽の水面を望むことは出来ませんでした。
右側の擁壁が水槽。水圧鉄管が左へ延びているのが見てとれます。

切石積みの水槽とレンガ積みの山留め
1914年製の産業遺産です。1世紀の時の流れは威厳と風格をもたらしました。

鉄管跡

かつては4本の水圧鉄管で構成されていたと思われますが、現在は1本に集約されています。


余水路

 

 

上部水槽の余剰水はオバーフローを越え、余水路へ排水されます。また、恐らくは水槽に沈殿した土砂の排砂にも利用されると考えられ、直線状に造られた余水路は土砂の滞留を防ぐためと思われます。

一直線に駆け下りる余水路

万が一ここに落ちたら、つるつるの川床により下までノンストップでしょう。少し考えただけでもゾッとします。


水圧鉄管

麓から望遠撮影

上部中央の煙突状の構造物は圧力調整弁と思われます。
敷地の広さと遺構から想像するに、かつては4本の鉄管で構成されていたようです。
現在の鉄管が何世代目かは不明ですが、向って左側に2本分、右に1本分の台座の遺構が見て取れます。

横断橋から見上げた水圧鉄管

左側のフェンスあたりにも鉄管跡があります。

横断橋から俯瞰

 

現在の鉄管の台座

 


発電機

鹿留発電所の水車

 

駒橋発電所構内の展示されている発電機とその説明版

 

鹿留発電所の水車

 富士五湖を水源とする桂川は、一年を通じて変わらぬ水量に恵まれているので、明治の末から大正にかけて、多くの水力発電所が建設されました。
 このように桂川流域は、我が国における大規模な水力発電発祥の地として有名です。
 明治四十年東京電燈(株)が、この地に当時我が国最大の駒橋発電所(一万五千キロワット)を建設し、五万五千ボルトという高電圧で東京市に送電したのが最初でした。
 大正年代に入り桂川電力(株)が東桂村鹿留(現都留市)に鹿留発電所(一万六千八百キロワット)を建設し、京浜工業地帯に七万七千ボルトで送電を開始しました。大正二年五月のことです。
 この時使用したのがこの発電用水車で遠くドイツのフォイト社から輸入しました。
 その後、桂川電力(株)は、東京電燈(株)に合併され、その東京電燈(株)もやがて日本発送電(株)や、関東配電(株)を経て、現在の東京電力(株)に引き継がれております。
 この間七十年余りにわたりこの水車は、営々として電気を起こし続けてきました。
 昭和六十年六月、ようやく新しい設備に取り替えましたが、永年活躍したこの水車をここに展示し、今後、永く桂川水系における水力発電の歴史を記念することとしました。

型 式  横軸フランシス水車
出 力  七千四百六十キロワット
製造年  大正二年

 昭和六十一年四月
  東京電力株式会社

現地説明版より転載

発電機の銘版

「いーゑむふをいと はいでんはいむ」(戦前の表記なので右から読む)
No.4436 J.M.Voith,Heidenheim 1912


下部水槽

発電所建屋裏の水槽

建屋は改装されていますが、切石積みの水槽は1世紀前からのものです。
発電に使用された用水は桂川に戻されることなく、ここから地下を潜り谷村発電所で再利用されます。

関連:
駒橋発電所