第四相沢川橋梁
谷峨-駿河小山のちょうど中間地点あたりに第四相沢川橋梁はある。
アプローチ
アプローチするには少々厄介で、国府津側は第三相沢川橋梁付近の柏木踏切を渡って行くことになる。農作業用の道路であるため、踏切の幅員は狭く、普通車の通行は困難である。踏切手前に2台ほどの駐車スペースがあるので、ここから徒歩がよいだろう。
沼津側は鮎沢川の右岸(南側)の道路を進むのであるが、途中に不法投棄防止のためかゲートがあり、一般車は進入不可となっている。徒歩で5分ほど川沿いを進むと、橋梁の上流50mぐらいの場所へ出る。ここは個人の農地であるため、撮影に際しては特に節度ある行動で臨みたい。
第四相沢川橋梁
クハ313-3002他
迅速測図
第四相沢川橋梁は明治22(1889)年の開業当初は径間105ft(32.0m)の上路トラス一連で、明治34(1901)年の複線化に伴い支間19.2mのプレートガーダー3連になったようである。*1)
私見であるが、現在の川幅が60m近くあることから、開業当初は護岸工事により川幅を32mまで狭め、橋台を設置したようだ。しかし川幅を狭めた上に、上路トラスでは増水時に桁が流出する危険性もあり、改良されたものと考えられる。
複線化に伴い、橋脚の幅員を拡げる改修工事が行われたと思われ、切石積の2基の橋脚の左右には円弧形の水切りが施され、重厚な印象を与えられる。資料がないため断定はできないが、デザインは単線時のものを踏襲したものであろう。西洋の優美な設計である。
橋桁の南側には「昭和三年 東京石川造船所製造 鐵道省」と刻まれた銘版があり、橋桁部分も歴史に耐えた代物であることが伺える。
昭和3年製の単線用ガーダーは、複線時も単線用ガーダーが2本架けられていたと推測でき、幅員の広い複線用の桁は技術面、費用面で採用されなかったことと思われる。
橋桁が載る橋脚上部はコンクリートで補強されたため、スマートな形体が失われてしまったことは残念である。
橋桁は3連ではあるが連続梁ではなく、各橋桁の間を橋脚上部には路盤面の高さまでレンガ積の構造をしており、個々に独立した単純梁となっているのもこの橋の特徴といえよう。
ゆう・ゆう東海
クモハ165-701他
私自身忘れていたのだが、現地には20年前にも訪れていたようだ。
撮影:1992.04.29
昭和三年 東京石川造船所製造 鐵道省
115系が渡る
ごく当たり前だった115系の走る姿も、今では貴重な資料となったといえよう。
1992.04.29 撮影
円弧形の水切りのある橋脚
水切りの天端はドーム状となっており、なんとも心憎い意匠が見られる。
消失した柏木集落
国府津寄りから第四相沢川橋梁のたもとへアプローチすとき、第三相沢川橋梁近くにある柏木(かしわぎ)踏切を渡ることになるのだが、この柏木というのは対岸の鮎沢パーキングエリアのあたりにあった集落の名称である。
昭和44年開通の東名高速道路の建設に伴い、鮎沢川の右岸側(南側)は造成され、地形が大きく変化した。
このとき、4軒ほど残っていた柏木の民家はすべて谷ヶ(やが)へ移転した。
地図上からその字名は消失し、人々の記憶からも消え去ってしまった今日、明瞭に柏木と詠ってあるのは、この踏切ぐらいではないだろうか。
明治中期測量の迅速測図には鮎沢川右岸の山腹に谷ヶから柏木を経て小山へ通じる道が記されており、川の両岸に生活の様子が見て取れる。
東名高速の建設により、谷ヶから通じていたこの道も、このとき消失したようである。
柏木踏切
吊り橋の跡
柏木集落の存在を知ったのは、対岸にある標高493mの頂にあったと伝わる鳥屋砦(とやとりで)跡を探索したときのことである。山頂には石祠があり、山北町史によれば柏木地区の人々が祀ったと記されていた。
相沢川橋梁を撮影した際、この踏切の名称と鳥屋砦跡の祠との関係が、筆者の中でつながったのである。
柏木集落のあった対岸の山腹
左の写真にある吊り橋跡も対岸の柏木地区へ渡るためのものだったのだろう。迅速測図には記載されていないことから、明治中期には橋の類いはなかったことになる。
また、吊り橋がいつまで使われていたのかも不明であるが、昭和44年までに集落がなくなっていることから、自然とその役割を終えたものと思われる。
旧柏木集落方向から
東名高速道路の鮎沢PAに向かう道から農道を下って行くと鉄橋を望める場所を見つけた。
徒歩でしか行けない場所である。
午後は車体が影になってしまうため、正午前後がベストな時間帯だと思われる。
撮影 2017年11月27日
透間集落方面から
クハ312-2328他
神奈川-静岡県境にある集落が山北町透間(すきま)地区である。
第四相沢川橋梁の沼津寄りへアプローチするには、鮎沢川の上流まで大きく迂回し、右岸を下ることになる。途中までは鮎沢PAへの搬入路に使用されている車道を通れるのだが、農道が分岐する地点にゲートが設置してあり、そこからは徒歩となる。
透間 集落付近
透間集落の対岸を走る御殿場線は、紅葉の季節は背後の山が特に鮮やかとなり、なかなかのロケーションといえる。
ただし、11月終盤のこの時期は太陽の位置が低く、紅葉が日に照らされ鮮やかな色彩をなす時間帯は限られる。おまけに富士山と箱根の山の地形が影響してか、午後は雲が湧くことが多く、なかなか思うような条件に恵まれない苦い経験を筆者は重ねている。
透間集落の対岸を行くあさぎり5号
この区間の背後の紅葉は特に美しい。デハ20302ほか
あさぎり3号
紅葉の時期にこの区間で、日の当たった371系を撮れるのは、あさぎり3号のみである。早朝も夕方も太陽は山の陰に隠れてしまう。
日没間近の2564G
この日も午後には雲が多く沸立ち、雲が作る陰日なたに一喜一憂していた。日が沈む直前の2564G列車の通過時には、かろうじて日が差し、鮮やかな紅葉を捉えることができた。
クモハ313-3007ほか
撮影:2010.11.27
あさぎり5号
撮影:2011.12.04
あさぎり6号
紅葉の季節のあさぎり6号が通過するのは日没後となる。
撮影:2011.12.04
透間 の吊り橋
歩いてみて初めて見えてくるものもあり、鮎沢川に架かる、人のみが通れる現役の吊り橋を見つけた。国道246号を車で走っている限りは気付くことのない場所にある。
先述の柏木集落へ通じていた吊り橋跡も、かつては同様の風景をなしていたのであろう。今なお現役の吊り橋を目の当たりにしたことで、遺構にリアリティーが増してきた感がある。
透間は鮎沢川の左岸のわずかな平地に民家が2〜30軒の集落であるが、右岸側にも2、3軒の民家があり、今でもこの橋が往来に重要な手段をなしていることがわかる。
また鮎沢川の左岸の露岩には人工的に穿ったと思われる穴をいくつも見つけた。水平方向に並んでいるため、かつては木製の樋が用水路として架けられていたものと推測できる。
地形図から判読すると、用水路跡は海抜210m付近に位置しており、ほぼ水平に流れていたとすれば、2km下流の諸淵地区で使用されたのであろう。諸淵集落の標高が190〜200mであることから、このように結論づけた。
透間の吊り橋
定員2名の通行制限がある。左側の黒い束は水道管で、この吊り橋が対岸の民家の重要なライフラインとなっていることを示している。
3D ステレオ写真
交差視で立体視できます
露岩に穿たれた水路跡
明治後期には川西地区に峰発電所が建てられ、発電用水路から農業用水も分水できたため、それ以前の江戸時代から使用されていた用水路跡と考えられる。
水平に並ぶ用水路跡
透間の吊り橋と313系
狭隘な山里の風景も年々壊れつつあり、御殿場線らしさをイメージできる数少ない場所である。
撮影:2017.11.29.
国道246号諸渕トンネル付近から
相沢川第四橋梁の撮影ポイントとしては、国道246号の諸渕トンネル西側付近が挙げられる。
ただし付近に駐車できる場所はなく、来訪する手段は各自に委ねたい。
2010年の台風9号の被害により、鮎沢川の上流や支流で復旧工事が行われていたため、川の水が何ヶ月たっても茶色く濁り、この年の川を含めた風景は今ひとつであった。
対岸の列車を望遠で
国道246号諸渕トンネル付近から
諸渕トンネル
南側(写真右)のトンネルは後の時代に施工されたようで、手前の道路も川側の半分は橋桁構造である。
現場のパノラマ
鮎沢川はここで大きく蛇行している様子がわかる。