光城山の桜


光城山遠景

ゴールデンウィーク付近になると、一筋の桜色に染まる尾根が現れます。


麓には駐車場があります

登山道

山頂広場

安曇野を俯瞰

メジロ

キビタキ

エナガ
 

アルプスと安曇野


有明山

安曇富士の異名も


消え槍

わずかに覗く槍ヶ岳を「消え槍」と称します。


常念岳
 
   

光城山山頂


山頂の光城跡の説明板

光 城 跡

安曇野市史跡
  光 城 跡

安曇野市内では規模の大きな山城で、鎌倉時代にこの地に来住した海野氏の一族、光氏によって戦乱の激しくなった戦国時代(一六世紀)に築かれたと考えられる。
 犀川(さいがわ)右岸丘陵上の尾根道南端を固めており、武田氏の松本平進攻に対しても、兵を配備し籠城したとみられる。しかし、天文二二年(一五五三)、刈谷城攻めに際し戦わずして落城した。その後、天正一〇年(一五八二)に松本城主となった小笠原貞慶(おがさわらさだよし)によって修復されたと考えられる。

平成二十年十月二十九日
安曇野市教育委員会

現地説明板より転載

 


光城址と古峯神社のゆかり

光城址と古峯神社のゆかり

この山頂にお城が築かれたのは遠く五百年余りの昔、戦国時代もまだ始めの頃、海野六郎幸元という武将がここに城を築いて自ら光之六郎幸元と名乗ったといわれている。この海野氏の一族は、そのころ会田、刈谷原、田沢(上の山)、塔ノ原にそれぞれ城を築き、互いにノロシ等を使って連絡しあって栄えていたので、場内の最も高い所でノロシ台のあたりに火の守り神とされる此の古峯神社が祭られてきたものであろう。
やがて戦国時代の末頃、川中島の合戦が近付くや、武田信玄(春信)の先鋒によって、天文二二年(一五五三年)三月、刈谷原城などと共に光の城も攻め落とされて武田方に従ったということである。

昭和六十三年四月
光南村古峯神社奉賛会

現地説明版より転載


空堀跡

三等三角点 城山

光城山の桜 360°FLASH VR
 


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長峰山パノラマ展望図

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