河村新城

甲州へ続く河内川対岸の奥山家道への睨みと、西方の尾根上を通っていた御厨(みくりや)道を抑える要所に築かれた城です。
山頂の見晴らしの利く場所からは、阿弥陀尾砦、丹土尾砦、鐘ヶ塚砦などが目視でき、往時も狼煙や鐘で連絡を撮っていたことが納得できる光景が見られます。

位置
国道246号を御殿場方面へ進み、並走するJR御殿場線の谷峨駅を過ぎたあたりから真正面に見えるのが城山です。
城跡へのアクセスは清水橋から300m西へ進んだ城山の南側からとなります。
道幅が狭く駐車スペースがないため、徒歩での登頂を勧めます。
246の南側の側道なら駐車可能です(自己責任でお願いします)。

 


城山に林立する電波塔

見晴らしの良い山頂付近には携帯電話の基地局があります。21世紀の狼煙台とも言えますね。


現地説明版
 


空堀跡

空堀の窪地が作業道として使われている。

河村新城跡

 新城は、小田原北条氏が甲駿国境に築造した重要な出城(境目の城)で、たびたび争奪戦が繰り返された城である。永禄十二年(1569)武田信玄の小田原攻めの際には、湯ノ沢城・足柄城など周辺の九城とともに落城した記録があるほか、天正九年(1581)には、武田勝頼の攻撃にもあっている。さらに天正十八年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めにあたっては、北条氏の江戸城代であった遠山左衛門尉景政(とおやまさえもんのじょうかげまさ)が守備していたところを、徳川家康配下の甲州勢が押し寄せ、雑兵三一人が討ち取られて落城し、その後廃城になったようである。
 この城は、川西(かわにし)字峰(みね)の標高342mを計る城山(じょうやま)頂上部にあり、南麓の鮎沢川と東麓河内川(こうちがわ)に加えて北麓を塩沢川が深い谷を形成し、周辺河川敷との比高差は約180mにもなる天然の要害を利用して築かれている。唯一西方へ伸びる細尾根上を通る御厨古道(みくりやこどう)は城内に引き込まれ、河内川対岸の奥山家古道(おくやまがこどう)や鮎沢川対岸の谷ヶ(やが)を通る古道なども遠見できる戦略拠点になっている。
 この位置は、『新編相模国風土記稿』の「城蹟図」によれば櫓臺跡(やぐらだいあと)となるが、平成十年に実施された試掘調査によって、櫓臺跡の中腹斜面を西から南へめぐる幅約4mほどの道路上遺構や、西方窪地部では幅約11.5m、深さ約3.5mの畝堀も確認されている。この他、周辺茶畑一帯には本城郭をはじめとした多種多様な城郭関連遺構が存在しているものと思われる。

平成十四年三月 山北町教育委員会

 

現地説明版より転載

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櫓臺跡

櫓臺を北側から

 


本城郭北西の農道

地図と照合すると2番目の空堀の上に築かれた道路といえます。


現場地図
「山北町史 史料編 原始・太古・中世」 p.459 を編集   クリックで拡大

   

本城郭からの360°VR

大手門の北側から360°VR


土橋跡

見ようによっては細尾根を利用した土橋といえます。


農道終点

舗装道路は終点ですが、道はさらに西へ続きます。


雛段地形

西の尾根を進み、北側の斜面を覗くと雛段状の地形がありました。当時の遺構なのか、後の時代の段々畑跡なのか...


更に西へ

踏跡を辿り、西へ進むもヤブに覆われてしまい、尾根道は途絶えていました。


採石場

尾根道が途絶えている理由は北西部にある採石場が地形を一変させてしまったためで、物理的に御厨古道は消失しています。
現場地図にある「遠見の番所」の峰は今は削り取られてしまいました。


塩沢集落

地元でも知る人の少ない塩沢集落が垣間見えました。

関連:河村新城の位置 外部リンク

   本城郭からの360°VR
   大手門の北側から360°VR


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