海の中を行く「快速みえ11号」
白籏神社近景

足柄峠へ向う金太郎富士見ライン(足柄街道)の駿河小山側の取り付き付近に白籏神社はあります。
東名高速道路脇の直線道路の山側にあるのですが、意識しないと通り過ぎてしまします。
筆者もよく利用する道ですが、白籏神社に訪れたのは初めてです。
この神社を知るきっかけになったのは、JR御殿場線の第五相沢川橋梁付近をロケハンしたときに見つけた「渡り上り」の碑です。
いまでこそ穏やかな風景に落ち着いていますが、そこにはなんとも切ない歴史がありました。

 


足柄街道からの接続


東名高速道路白籏橋からの接続

鳥居の向きから考えると、こちらが正式な入口といえます。
東名高速道路が出来る以前は、麓から山の斜面の階段を昇って参拝にきたのだと推測できます。


白籏橋か

モータリゼーションの波に押され、麓の集落と神社は高速道路により分断されたのでしょう。かろうじて陸橋という形で参道が保たれていますが、高速道路の騒音は酷く、神聖な空間が保たれているとは言えません。
便利である高速道路の負の側面を見た気がします。

 


内海側から

太平記余聞伝承
白籏神社

 建武二年(一三三五)朝廷に反旗をひるがいせた足利尊氏を討伐のため尊良親王を奉じた新田義貞の弟脇屋義助軍は十二月十二日竹之下にて足利軍と激しい戦いに入った
しかし大友・佐々木軍の裏切りにより戦に敗れ戦機利あらずと見た親王を守護する二条中将藤原為冬卿は秘かに親王を西に落ちのびさせ自らは刀折れ矢つきた軍勢を引きつれ鮎沢川を渡り小高い丘に登り親王が無事に落ちのびたのを望見(遠見)し所領部落へとむかった
 そして卿らは部落の農家藤太夫宅に寄り食を乞い老婆の差し出す有りあわせの米の搗粉を自ら水で掻きこれを食べやがて炊き上がった粟の赤飯を萩の箸にて食べた後裏山に登りはるかに天朝の武運長久を祈り生死を共にした七十四名の士と共にことごとく寺と自刃して果てた
 里人達は為冬卿以下の屍を埋葬、石塔を建立して手厚く弔ったが、のちに長亭(一四八七)年間に至り、卿の忠誠を慕い社殿を建立。毎年九月二十八日を祭祀として古事にならい米粉を水にて掻き(オカラコと云う)また粟の赤飯に萩の箸を添えて奉供するのを代々伝□□・・・

現地説明版より転載


白籏神社拝殿

稲荷社


  


左近衛中条二條為冬之墓


天日復明の碑



白籏神社から西方を望む

騒々しく様変わりした風景に二条為冬らは何を思うのでしょうか。

関連:ロケハン JR御殿場線  第五相沢川橋梁

  

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