1986年暮れから新年にかけてと、1987年3月末に北海道を訪れたときの記録を掘り起こしてみた。
当時はまだ青函連絡船が運行し、国鉄からJRへと切り替わる時期でもあった。
当時は気にも留めなかった風景や車両が今日では貴重なものとして映る。
記 2014年
1986年暮れから新年にかけてと、1987年3月末に北海道を訪れたときの記録を掘り起こしてみた。
当時はまだ青函連絡船が運行し、国鉄からJRへと切り替わる時期でもあった。
当時は気にも留めなかった風景や車両が今日では貴重なものとして映る。
記 2014年
先頭車両はキハ183-101or103
中間車キハ184を先頭車に改造したもので、100番台は全部で4両製造された。
1987年当時は非電化区間だったわけだが、1年後の青函トンネル開通に向け、電化工事が始まっていることも確認できる。
この当時は車体のカラーリングがオリジナルのものと混成の編成で運用していた。
キハ22は酷寒地仕様で設計された車輛で、北海道と東北地方に配属されていた。
キハ40と混成運用されることも多かったが、塗色は朱色5号で統一していたため、編成には統一感があった。
1987年1月1日
キハ27-115 + キハ56-1xx + キハ56-132
8101D 急行ニセコ 函館 15:02発 → 札幌 20:41着
この当時は急行ニセコは祝祭日などに臨時列車として運行していた。もちろん、ニセコアンヌプリのある山線経由である。
1987年1月1日
キハ56-132 他
気動車の形式は判りづらいのだが、キハ56、キハ27は広義には共に58系に分類される。
キハ56-100番台は酷寒地仕様で本州用の0番台と比較すると、客室窓が一回り小さく二重窓で、長大編成に対応したエンジンが2台搭載された車輛であった。
キハ27とキハ56の見分け方は、エンジンの搭載数の違いとなるわけだが、外観上は側面中央部の給油口の数で区別でき、2つある方がキハ56である。また、2台のエンジンにより、床下に格納できなくなった給水タンクが屋根に設置された点からも区別できる。
近年、キハ40にこの急行色を塗装したレトロ風の試みがあるのだが、前面窓の位置が高いキハ40には似合っていないと個人的には感じている。そもそも、キハ40にそんなカラーリングはなかったのだ。
昭和62年3月31日をもって国鉄が営業を終了し、JR6社へ移行された。
今思えば、これを機に全国的な鉄道旅行がしづらくなったと言え、JR各社の境界線付近は普通列車の運行さえ分断されがちである。
国鉄最後の日には青函連絡船の様子をテレビ局が取材していた。写真はタレントの中原理恵。
国鉄からJRへ変わる日。「明日から新会社です」の横断幕が掲げられた。
写真手前の改札に各自が記入した乗船名簿を提出する決まりになっていた。左の階段は連絡船のグリーン船室専用の乗船口。一般席は右奥へ直進する構造で、写真にも八甲田丸船体への架け橋が見えている。
JR発足にあたり、駅構内は飾り付けがされていた。
日付が変わる0:10発の2便、羊蹄丸の乗船まで待合室で筆者は仮眠をとっていた。
近くに座っていた、おじいちゃんと孫の会話があまりにも可愛いかったため、思わず撮ってしまった写真。
孫 :「ねえ、じいちゃん。船いつ出発するの?」
お祖父さん:「もうすぐ出発だよ」
孫 :「嘘だ! だって今、夜だよ?」
お祖父さん:「夜でも大丈夫なんだよ」
孫 :「まったく、じいちゃんも分かんない人だねぇ・・」
この5歳ぐらいの男の子にとって、船は夜間、運航しないものと思い込んでいるようだった。
国鉄からJRへ移行するにあたり、煙突に掲げられたロゴも取り替えることになるため、作業足場が組まれていた。
関連:函館山パノラマ展望図(2012年2月)
さよなら羽幌線 -国鉄羽幌線営業最終日(1)-